花火の歴史

日本の花火の起源は、1543年、種子島にポルトガル人が来航し、鉄砲を伝えた事から始まり、その鉄砲を解体して、火薬の製法等を研究したと伝えられております。
 
戦国時代に武器として使われた火薬は、江戸時代に入ると、娯楽としての「花火」に使われるようになりました。

当時の文献によると、伊達正宗や徳川家康が花火を見物したと書かれているようです。

その後、鍵屋・玉屋による両国川開きなどで有名な江戸のほか、三河・信州・越後などを中心に花火は大変盛んになっていきました。

これら江戸時代の花火の色は、暗い炭火色1色のみ(和火と呼ぶ)で、この濃淡で表現されていましたが明治8年頃、マッチの原料として塩素酸カリウムが輸入され、それを研修し日本の花火に応用し現在のようなカラフルな明るい色の花火になりました。

両国の花火250年誌

西暦 年号 花火歴史
1733 享保十八年 5月28日、水神祭を行い、その際、両国川開き大花火創始。当時一晩に上げた花火の数は、仕掛、打上あわせて20発内外といわれる。
1754 宝暦四年 鍵屋の記録がすでにこの時分、線香花火の配合が出ている。
1808 文化五年 鍵屋番頭の清七、のれんわけして、両国吉川町で玉屋を名乗る。
1842 天保十三年 5月24日、幕府は、花火師鍵屋弥兵衛、玉屋市兵衛を呼出し、大川筋の花火に代銀三以上の費用をかけることと花火からくり(仕掛花火)、筒物を禁止した。
1843 天保十四年 4月17日、吉川町花火商玉屋、将軍御成の前夜失火して所払いとなり、誓願寺前へ移る。
1855 安政二年 10月、大地震の火災のため柳橋花街全滅す。
1856 安政三年 川開きの花火、今年断絶して何年にも見られず。
1863 文久三年 5月28日、両国橋辺夜店始まる。花火はなし。納涼の人出少なし。
1868 明治元年 6月8日、両国の川開き挙行される。近年打ち絶えていた為、大盛況を極める。
1871 明治四年 5月28日、花火の当日雨降り延期となる。
7月1日、日延べして実施したが、景況悪かった。
1872 明治五年 5月28日、両国川開きを挙行する。天候好く人出盛ん。納涼船の数、屋形船五隻伝馬船七十隻。日除船250隻にのぼる。
6月16日、両国橋に初めて人力車の通行を許す。
7月26日、第2回の両国花火を催す。
1873 明治六年 両国川開き当夜、横浜在住の遊客便宜のため初めて汽車の臨時列車運転の旨、外字新聞に広告出る。上下あわせて三本。
6月28日、川開き天候好く人出盛ん。
9月5日、イタリアの皇族、川蒸気にて両国中村楼に上陸。煙火見物。柳橋の美形30名接待する。
1874 明治七年 7月5日、花火天気好く人出盛んにて、各料亭とも満員客止となる。
花火が真丸く開くのはこの時分からで、十代目鍵屋弥兵衛の苦心によるという。
1877 明治十年 鍵屋十一代目弥兵衛、塩素系カリウム等により、赤色、青色を出すのに苦心したが、薄桃色とヒワ色程度に終る。
1878 明治十一年 8月17日、柳橋花街水神祭を催し、芸妓の仮装を船に乗せ、代地河岸の料亭に遊ぶ客のもとめに応じて歌舞を演じ盛況を極む。
1887 明治二十年 6月28日、川開き挙行。景況すこぶる好し。
鍵屋十一代目弥兵衛、炭酸ストロンチーム硫酸バリウム炭酸銅により赤緑青の発色に成功す。
この頃の花火打上げ数、仕掛二十本内外、打上百発くらい。
1890 明治二十三年

7月16日、両国川開き挙行。打上花火百本、仕掛十本。川開き万歳は新趣向にて評判よかった。仕掛に武蔵の月。

1892 明治二十五年 大花火あり。両国橋上流下流とも、川開き万歳の仕掛を打ち上げる。
1895 明治二十八年 8月9日、延期を続けた花火を催す。打上げ百三十本。仕掛二十本。
1897 明治三十年 8月11日、夜八時過ぎ両国川開きの仕掛花火の八方矢車が中村楼前に打上げられた際群衆急に移動したため両国橋の欄干四間半ほど崩れ落ち花火中止となる。
8月14日、右の川施餓鬼。
1898 明治三十一年 8月6日、昨年の椿事により両国大花火に初めて橋上の交通整理す。
1903 明治三十六年 5月から7月まで、鍵屋十一代弥兵衛マニラに行きスターマイン持ち帰る。
8月、両国川開き大花火にスターマイン連発初めて登場す。
1904 明治三十七年 川開きに初めて足場を組立て、大仕掛、幅五間高さ四間の日露戦争の図。
1907 明治四十年 8月3日、大花火、大仕掛は加藤清正大虎退治、絵入りになり鍵屋発行の番組約四倍代。
この年、両国橋から百五十間ずつ船をはなすこととなる。
1908 明治四十一年 8月1日、川開きの花火を挙行する。不況にて各料亭の申込半数、人出十万人。船相場、屋形十二円、屋根十円船頭付。
1912 明治四十五年 7月19日、川開き花火の当日中止。明治天皇御不例発表のため。水上署の一人警官一人船頭付の数十隻の小船も一たん警備についたが中途にて引上げる。
1915 大正四年 7月24日、両国川開き、御大典奉祝にちなむ花火多く賑う。伝馬船(船頭二人付)三円
11月16日、柳橋芸妓御大典奉祝のため早乙女姿にて出動す。
1918 大正七年 7月20日、川開き花火。本年より両国橋中心に上下流とも、三百間内に舟の出入りを禁じ、浜町ならびに本所側へ桟敷を設けることを禁止する。大仕掛花火は欧州大海戦光景、日英祝賀堤灯。
1923 大正十二年 9月、大震災にて柳橋花街も全滅する。
1924 大正十三年 7月19日、大花火大仕掛は日本名所日光華厳の滝。
鍵屋発行の大花火番組の宛名は従来、割烹家遊覧船宿御中とあったがこの年より料理店一本となる。
1925 大正十四年 7月25日、川開きの花火の大仕掛は奉祝銀婚式代祝賀会の光景。
1926 大正十五年 7月24日大仕掛の呼び物は、皇孫殿下御降誕を祝い奉りて「石橋獅子の舞」
1929 昭和四年 7月20日、大花火大仕掛は復興の大東京全景。
この頃の花火業者は全国で八百軒位という。
1930 昭和五年 7月19日、川開き大花火、日本海大海戦の25周年記念と銘うって、日本海海戦の大仕掛を打上げる。
1931 昭和六年 7月8日、柳橋二業組合、柳橋芸妓屋組合合同して川施餓鬼を行う。
7月18日、川開き花火の大仕掛は御帰朝記念大祝賀会夜景。
1933 昭和八年 7月21日、川開き大花火を開催す。インフレ時代とて景気よく、一般桟敷料一円、乗合船大人五十銭小人三十銭の高値でも満員となる。仕掛の呼び物は日満親善大祝賀会なり。
1934 昭和九年 7月21、大花火大仕掛は、皇太子殿下御降誕「御国の栄」で、日の出を背景に国旗を手にした児童三人が万歳を叫びながらあるいている図。打ち上げ花火は昼夜で五百本、仕掛花火は上下で二十六組(大仕掛の足場幅八間、高さ六間)その間に流火広告の仕掛あり。花火業者全国で四百二十軒位という。
1935 昭和十年 大花火仕掛の呼び物は日本大海戦三十周年記念。
1936 昭和十一年 7月18日、川開き花火挙行する。人出物凄く百万人と称す。呼び物は国際オリンピック大会の景。
1937 昭和十二年 7月17日、川開きの花火挙行する。人出五十万といわれ前年の半数。大仕掛は大江戸広重情緒、両国の夕涼。翌年から中絶。
1940 昭和十五年 5月頃、白衣の勇士招待だけの川開き大花火を計画し、各料亭の割当まで済ませ準備完了のところ独ソ関係緊迫の理由で断念。以後昭和二十二年まで大花火なし。
1947 昭和二十二年 8月15日、川開き大花火をこの日に計画する人がいたが実現せず。
1948 昭和二十三年 8月1日、川開き大花火十一年ぶりに復活。第一回を読売新聞社後援にて挙行する。観客七十万人、警備出動の警官三千人。
9月18日、全国花火コンクール第一回を東京都観光協会主催、読売新聞社後援にて浜町河岸両国橋下流に開催、東京柳橋組合も全面的に協賛する。
1949 昭和二十四年 7月23日、川開き花火、第二回全国花火コンクール合同にて挙行する。
1950 昭和二十五年 7月22日、両国川開き大花火。第三回全国花火コンクールと合同にて催す。この年から川開きの打上げ場所二ヶ所となる。
1951 昭和二十六年 7月21日、両国川開き大花火を催す。この年から第四回全国花火コンクールと別個に打上げることとするが、同日同時刻に催すことを協定する。
1954 昭和二十九年 7月24日、川開き大仕掛は日光陽明門。
第七回全国花火コンクールも同日挙行する。
1955 昭和三十年 7月30日、大花火を挙行。大仕掛は安芸の宮島。
同日第八回全国花火コンクールを挙行する。
1958 昭和三十三年 7月26日、川開き大花火を挙行し、優秀なブロックには総理大臣杯を授与。
1959 昭和三十四年 最後の全国花火コンクール挙行する。大仕掛は御結婚記念連獅子。
この年から五寸玉使用禁止され、四寸玉以下となる。
1961 昭和三十六年 7月22日、蔵前橋・両国橋間で挙行。お城ブームに乗った仕掛「日本の名城シリーズ」など二千四百発。人出二十三万六千人。
1962 昭和三十七年 交通事情の悪化により川開き大花火禁止される
1978 昭和五十三年 7月20日、墨田川花火大会と呼び名をかえて復活。打上げ数は一万五千発。財源は公共予算(東京都および墨田区・台東区・中央区・江東区)が主体となり、住民を代表する実行委員会が運営にあたる。
1983 昭和五十八年 7月30日、両国川開き二五〇周年記念隅田川花火大会実施。

 


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